おんがく村で収集・所蔵している沖縄音楽は、大きく分けて4ジャンル。
それぞれの音楽には、沖縄ならではの音階、言葉、時代背景が盛り込まれ、今日まで進化してきました。
ここではその沖縄四大音楽についてご説明いたします。
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1945年8月15日、アジア・太平洋戦争が終結。本島北部の金武村にあった屋嘉収容所では缶詰の空き缶を利用した三線が作られ“PW”(捕虜の意味)の心情を歌った「PW無情」という歌が生まれた。また、日本本土や日本の植民地であった南洋からは、多くの人々とともに民謡歌手が沖縄に引き揚げ、コザを中心に音楽活動を行った。戦後の沖縄民謡界を支えた歌手を中心に、コザは民謡のまちとしての地位を揺るぎないものにしていった。その波は途切れることなく、新しい民謡が生まれ続けている。 |
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ベトナム戦争時代、ゲート通りやBCストリートのAサインバー、米軍基地内のクラブで米兵相手に演奏を行うロックバンドが次々に誕生した。
1960年代終盤には海外でハードロックが流行し、沖縄にもハードロックの波が押し寄せる。1972年、沖縄の日本復帰と同時に沖縄ブームが訪れ、沖縄のロックバンドが次々にメジャーデビューし、一世を風靡した。その後も新しい感性を持ったミュージシャンたちが次々と誕生して全国的に活動している。 |
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戦後アメリカ軍政下に置かれた沖縄では、基地内のクラブでジャズの生演奏をするバンドが必要とされ多くのバンドが誕生した。しかし、日本復帰を境に基地内での仕事が激減し、次第にビッグバンドは少なくなる。その後、ジャズ喫茶やライブハウスが増え、多くのミュージシャンがジャムセッションで腕を磨き、レコードやCD等の音源を発表する。その頃から、沖縄民謡をジャズにアレンジするなど、沖縄独特のジャズミュージックが生まれた。 |
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ベトナム戦争が長期化の様相を呈し始めた頃、反戦ソングを中心としたフォークソングが全国的に流行した。日本復帰の直前、長期に渡る人権を軽視した米国統治への反発から1970年に米軍車両焼打ち事件「コザ暴動」が発生し、沖縄人の人権拡大や復帰運動に大きな影響を与えた。翌1971年には、沖縄でもコザ市出身のフォークシンガー等が中心になり沖縄フォーク村が創設され、沖縄フォークの時代を築いていく。 |
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「おんがく村」では、沖縄音楽の貴重な音源や映像、紙資料を、みなさまのご協力の下、
収集・所蔵しております。館内では全ての資料を実際手にとってご覧頂くことが可能です。